ミケ日記

2003年5月1日〜6月21日


6月21日 土曜日

 今週はおるかの風邪のせいで落丁の如く過ぎた。

 台風の後の青空が覗き、おるかもげんきになったらしく洗濯などはじめた。目を覚ました時布団から外の景色をみて「生き返ったようだなぁ。」ともらしていたが、生き返って最初にするのが洗濯とは人間は下世話なものである。

 「生活?そんなものは召使たちにさせておけ!」と言ったのはだれだっけ。その昔のフランス貴族だったが。さよう我輩も生れついての食物連鎖の王である猫族の一員であるから、こう言っておこう「生活?そんなものは人間にさせておけ!」

 それにしても、もし我輩が生き返ったら、最初になにをするかなー。やっぱり日向で昼寝かな。


6月16日 月曜日

 講演会の時、後の席で咳き込んでいたのがスーパー・スプレッダーだったのか、おるかは風邪らしい。一日中ユーカリ・オイルの匂いをさせて寝込んでいる。

 午後になってお茶を飲みにきたが階段を下りただけでばてたらしく床にのびていた。我輩も少々心配になってみていると、やおら匍匐前進で座卓の下をくぐったりしている。これはとうとう黴菌が脳に来たかと思っていると「猫の視点を体験!」だと。我輩がそんなのろのろ這うか!?無駄なエネルギー使うなよっ!


6月14日 土曜日

 おるかは講演を聴きに行って、ついでに中央公園を散歩してきたそうだ。散歩は楽しかったが、講演はあまりにも安易でつまらなかったそうだ。最近出版された講演者の著書の親しみ易いアンソロジーを読み上げるのとほとんど違わない。なにがしか準備したとも思えない(スライド二三枚くらいはしたのかな)。聴衆をばかにしてると思われてもしかたない内容だった。

 くらべるのもなんだが、せんだっての辻井喬の「現代詩と伝統」の講演は、氏の著作を読んでいれば想像がつく内容とはいえ、きちっとまとめられていた。そうでなければこまる。

 自身の著作について語るにしてももう少しやりかたがありそうなものだ。あれでは講演会ではなく自作朗読会である。

 式子内親王の歌が好きなのは結構だが「素晴らしい、感動した!」だけなら小泉首相でもいえるよ。

 教育改革も、教える方がまず変ってもらわねばはじまらないだろう。


6月12日 木曜日

 昼休み、おるかの弾くエリック・サティで、しばしうとうと。ジムノペティはこんな夏の初めの昼寝に最適だ。

 モーツァルトの練習を始めたので、聞いていられなくて庭に逃げ出す。ピアノ協奏曲の第二楽章だけでもCDと一緒に弾きたいらしく、珍しく練習をはじめたのだ。ピアノなしの文字通りのカラオケがあったらいいのにとぼやいている。

 柏葉紫陽花やがく紫陽花が咲き始めた。遠くの山に白くみえるのはさびたの花だろうか。川岸にも白い花ビラがたくさん流れ着いている。


6月11日 水曜日

 一日染付更紗文八角皿を描く。筆の調子が良く線をひくのがしみじみ楽しい。新製品の船方の銚子の絵も上手く乗ったようだ。新しい物を作るのもワクワクするが、定番の絵付けのある日ふっと抜け出た感じがするのも、格別嬉しいものだ。


6月10日 火曜日

 「地震か?」とおるかが顔を上げた。周りのものが揺れていないので、自分が震えていたことに気付く。熱を測ると37度5分くらいだ。たいしたことはない。

 新聞紙を広げて吹墨をする。「震えていると面白い感じになるかもしれない」などと呑気なことをいっている。吹墨とはシュロのちいさな束で、素焼きの上に呉須を跳ね飛ばして波飛沫のような図柄をだす手法のこと。ジャクソンポロックの絵の淡いのを想像してもらえばよい。

 夏風邪だろうと葛根湯をつくる。六月の蒸し暑い昼間にセーターの上にフリースのパーカーを着て湯飲みをふーふーしているのをみていると桂枝雀の「葛根湯医者」をおもいだす。

 枝雀は面白かった。頭の池に飛び込んで自殺する噺など。ちょっとシュールなものをやると最高だった。時に、あまりに笑いをとろうとしすぎるようなこともあったが、必死だったのだろう。

 大阪落語らしい噺では露の五郎の季節の物売りの声の噺が絶品。「タッケノコ!」
 
 江戸落語も勿論好きだが、あまり人情がからんだりするのはうざったい。そのてん志ん朝はよかった。人情たっぷりのおかみさんをやってもどこか品格があった。いい人は早く逝ってしまうものだなぁ。おるか心配するな、風邪をこじらしたところで、おまえは大丈夫だ。


6月9日 月曜日

 「また締め切りに遅れる!」とおるかは蒼くなっている。午前中考えてお昼までにやっとのことで五句搾り出したらしい。鎌倉に出す荷物といっしょに郵便局へ持って行ってもらった。

 鎌倉では「水遊び碗」や「畦道小皿」など、いかにも通好みの器がボツボツ売れる。器の好みにも九鬼周造の「粋の構造」にあるような関東の粋と関西のはんなりの構図はいまだにあるようである。百年かそこらで美意識の底まではなかなか変らないのかもしれない。

 とは言うものの、曽宇窯のような生産量の少ないところで判断しても、しょうがない。広島で大皿が売れるから,高知県のさわち料理のような大皿を使う郷土料理でもあるのかと思っていたら一人のコレクターがいらっしゃっただけだった。岐阜県では染付が売れるとおもっていたらK夫人が一手に買っていて下さったのだし。

 「一葉落ちて天下の秋を知る」ためには木を選ぶのが肝要なのである。


6月6日 金曜日

 久しぶりに本屋で文庫本あさりをしてきたおるかは嬉しそうにあちこち開いて見ている。山本夏彦の「完本文語文」で笑い転げている。「限界芸術論」でも笑ってたもんなー。

 バルトの「表徴の帝国」が日本人にはこそばゆいのはわかるが、前に塚本邦雄の評論でもわらってたな。ユーモア感覚に異常があるんじゃないのか?

 かとおもうとマンガ「光の碁」を食い入るように見る。あっという間に読み終わったと思ったら、また繰り返して三遍ほども見る。そして「手を描くの上手いなー」だと。そんなとこ見てたんか!


6月5日 木曜日

 熱も下がって今日はおるかは元気のようだ。朝食のパンにハーブ・チーズを分厚く塗って、限界芸術論を読みながら食べている。最近はこのドイツ製のチーズが安くて美味しいとお気に入りらしい。庭のハーブ類をきざんで混ぜるのも初夏の気分だ。レタスはお隣りから頂いた自家製で新鮮。ベランダで食べ始めたが、午前の太陽がもう暑い。そうそうに屋内へ引っ込む。

 食べ終わると今度は歯を磨く。おるかは歯磨き道楽である。これもドイツ製の練り歯磨きがおきにいりとかで、読めないドイツ語の効能書きをじっとみつめながら磨く。この会社はエコロジー・コンシャスで、使用しているハーブは全て「一度も農薬を使用していない土地からとれたもの」だそうだ。さすがドイツ人はやることが徹底している。


6月4日 水曜日

 薄曇。床に外の緑が映っている。挿絵を郵送。麦藁手蕎麦ちょこ発送。

 おもいがけずN氏から、小雑誌届く。エッセイにおるかの事を書いたらしい。「いやに美化してあるなー」と照れている。

 午後から「バリバリ仕事だ!」と言っていたのに、絵日記を描きはじめて結局仕事は染付「水遊び碗」を少し仕上げただけだった。

 夕方また熱を出してお粥を食べて寝込んでいた。かと思うと起き出してなにか書き始める。朝から機嫌も体調もコロコロ変わって忙しいことだ。


6月3日 火曜日

  午前中錦窯をだす。古九谷風の皿、菖蒲の図柄。なかなかいい出来だ。一枚はかざり、二枚をお店にプレゼントした。こんなふうな年中行事十二ヶ月の絵替りの皿をつくってみようか。売れないだろうけど。

 午後から挿絵を描こうと努力。長編を仕上げて気分がのびのびしたのかY氏の今回のエッセイは質量ともしっかり書いてある。しかし絵にはなりにくい話だなー(泣く)。


6月2日月曜日

 ゴトンとおとがして郵便受けにカタログが押し込まれた。通販のカタログのよく届くこと!一度注文すると未来永劫に分厚いカタログが届けられることになるらしい。おるかは気分転換になるとか言ってそれらのカタログを飽きもせず見る。今日来たのは男物の夏用衣料品だ。Tシャツ.一枚が一万円もする高級品ばかり。「いいものを長く着るのが賢明だとは思うんだけどねー」と言いながらユニクロの500円のシャツを買っている。

 我輩は最高に艷のいい毛皮一枚で一生を過ごすのである.少しは見習うが良い。
 
 夕方から古九谷風の五寸皿を仕上げて実験用の窯に入れていた。新製品か?


5月31日 土曜日

 台風が雨になって消えて、残った風がくるったようなフェーン現象になった。暑い。おるかも朝のうちはTシャツに厚めのコットンセーターだったのがお昼には薄い麻のシャツになっていた。こちらは、まだ完全に夏毛に変っていないのでまったく閉口した。

 そのアデンの町もかくやの熱気のなかで、祥瑞の茶碗を描くのはつらそうである。すぐ休憩となるのもやむをえまい。昨日からとりかかって午後になって漸く三碗をしあげただけだ。

 夜も寝苦しい熱帯夜だ。開け放した窓から雨の音川の音が響いて、熱帯雨林の中で行き暮れているようだった。
 
 おるかの夢である。夢のなかで、ときどき行く町で、めずらしく数人の仲間と吟行していた、本屋でなにか手に取るうちに、夢は時代劇になり、二人の腰元(?)を連れて敵に落とされた屋敷から逃げ脱すところだ。おるかは男装している。二人の女はとてもか弱く、庄屋の家に匿ってもらおうとするがそのまま消えてしまう。おるかは男として書記生の仕事を手伝うことになるが、ふと女声で歌ってしまったりして源頼朝のような装束の人物に、「死体が上がっていなければ〇〇(おるかの正体)と思うところだ」などと耳打ちされるのだった。
隣りにねている人間の夢は猫にはつつぬけなのだ。


5月29日 木曜日

 テレビをなんとなくだらだら見た。「武のナントカ」いう番組の聖書の予言。

 聖書の全ての文字をを一列に並べ、あるソフトで解読すると読み取れる予言があるのだそうだ。アーサー・C・クラークのSF小説で円周率の中に宇宙人のメッセージがこめられている話があったが、神様なら、そのくらいしたほうが説得力がある。聖書もいろいろあって今のところ一番ふるいのは死海文書なのか知らないが、原典というわけではないのだろう。大体、神はヘブライ語を話すことになるわけだ。もろに選民思想というか。

 その予言によると2006年に最終戦争が起こるとか。こういうことに惹かれる人もいるのだろうな。


5月28日 水曜日

 今日もいい天気。深紅の美女撫子が庭の緑の中で、なまめいて見える。ながい睫毛のような毛先の紅をひめた黒が気にかかる。ベランダは薔薇が今盛りだ。カラタネオガタマのねっとり甘い芳香があたりの空気を重く感じさせる。麗しの5月、黄金の時。

 黄セキレイが川から家の軒まで垂直に飛び上がったり降りたりしている。また巣をつくるのだろうか。昨日一昨日と四十雀が庭木の中を丁寧に渉っていたが、この季節にはめずらしいことだ。

 お昼を食べていると、村の有線放送が鳴った。すぐちかくのゴルフ場あたりで熊が出没しているとのこと。せんだっても近くで熊が射殺されたと聞いたが、山奥でも何か異変がおこっているのだろうか。


5月27日 火曜日

 おるかはまた、風邪気味らしく半日寝ていた。午後起きだして少し仕事したようだった。が、後その後テレビでSARSウィールスの保菌動物の疑いの在るハクビシンを見て、袋の中から怯えた、しかしどこかもうあきらめてもいるような濡れた瞳でカメラを見つめる愛らしさに「可哀想だ」とまた倒れこんでしまった。これで一週間は思い出して苦しむのだ。テレビでみただけでそれほど思うのなら、自分のの手の届くところで、なにかしたらどうだ。たとえば、我輩の餌のグレードをあげるとか。隗より始めよというではないか。


5月25日 日曜日

 ずっとパソコンが空かなくて日記をつけられなかった。おるかは今日は金沢の現代詩ゼミナールに参加してたのしかったらしい。貸してもらった本、頂いた本、買った本など山のように持ち帰った。

 先日Y氏が「買ったか?読んだか?」と二度も電話してきた小説をまずは読了。ついで学究K氏の民俗学の本に移った。これは簡単に感想の書けるような本ではないようだ。

 その間ちらちらと河原枇杷男句集を眺めている。


5月9日 金曜日

 お隣りの黒猫クーちゃんが今朝死んだ。一時十分。

 おとなしい良いやつだった。いつもお隣りのおじいちゃんと一緒で、山仕事にもついていっていた。夕方、おじいちゃんの一輪車に野菜と一緒に乗っかって帰って来るのが見えたものだ。外猫たちはおぼっちゃまなどとからかっていたようだったが。動物界の貴族である猫らしく、静かにこの世をたちさったという。


5月4日 日曜日

よい天気がつづいている。外の日向で寝るのは気持が良い。

 ここ数日すこしばかり体調がいまいちだが、オルカがやたらに心配するのがうざったい。細かいことに一喜一憂して見苦しい。そこで一首。

  生を恐れぬ我ならば死を向うこと隣りのトラに遭ふより易し   ミケ

 ネイティヴ・アメリカンの誰かが言っていた「生死とか、永遠なるものとか、超越者とか、に対峙できる者は日常生活の諸問題にも平静に対処できるだろうと考えるのは逆である。日常の些事にしっかり対応できれば一大事にも平静に対処できるものなのだ。」と。
 そのとおりだろう。日常の些事ほど人の心をいらいらさせ、がっちりつかんでひきずってゆくものはないのである。

 まだまだ修行が足りないようだな、オルカ。


5月1日 木曜日

 布団の中で目をつぶったままでも今日がどんなに素晴らしい晴天か分る。

 川の音、鳥の声、裏山でだれかの筍を掘る音。

 オルカはシャガの花をたくさん切って友人Tさんの家へ行った。花は朝に切るともちがいい、夕方はまぁまぁ。シャガは生命力が強いから水切りするバケツの中でも、もう開いて来る。Tさんはこのところ加減がよくないらしい。シャガの元気がすこしでも気分を晴らしてくれるといいのだが。花束の真緑の葉に、とてもちいさなカタツムリがいて、遠くまで運ばれたのも知らぬふうにはかない角を出して這いつづけていた。透けるように白い殻。

 それにしてもカタツムリはどうやって殻をつくるだけのカルシュウムを集めるのだろう。特殊な酵素でもあるのだろうか。カタツムリの研究で骨粗鬆症の特効薬でもつくれないものか。

 Tさんから本3冊借りる。2冊の刑事ものは「それほどのものではないが、作者が同姓なので」入手したとのこと。以前K夫人も主人公の引越し歴が自分のの引越し歴とぴったり重なるという理由で「それほどのものでもないが」読んだという本を紹介してくれた。本を読むのにいろんな理由があるものだな。


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