ミケ日記

2004年 11月


11月29日月曜日 どうにか晴 夜、雨

 お隣のおじいちゃんがまた柚子の木に登って実を採ってくれた。ゆらゆらする梯子の上で身をそらしての作業だ。見ているほうが心配になる。今年は柚子のあたり年らしい。濃い緑の葉に黄金色の実が家を囲んで日照雨に輝いている。暖かな十一月だった。

 おるかは昨日から右足を引きずっている。疼痛がするそうだ。すり足でじわじわ歩くかと思えば急ぐときは穴に逃げ込む蟹のように横歩きをする。この機会に絵付けを椅子でやることにしようかなどと考えている。

 我輩の大好きな炬燵の季節がやって来た。新しい炬燵布団カバーは大きくて、ちょっとごわごわで、もぐりこむのが難しい。その分、中に入ってしまえば落ち着く。雨の音も川の音も遠くなってサーモスタットの時折プチと鳴るのもしみじみとする。なにかを思い出すような気がするが、それが何かわからないままに、我輩は眠りに落ちるのである。


11月26日 金曜日 曇りのち晴れ夜になって雨

 柚子のにおいがする。この季節、この家の人間は連日の柚子湯である。柚子湯に使われた柚子の種は発芽できるのだろうか?無理だろうな。

 蓼食う虫も好き好きというが、柚子の実を食う虫は見たことがない。鳥もさすがに酸っぱいらしく食べない。柚子の木はいったいなにをターゲットにしてこんなにもたわわに金色の実をつけるのだろう。人間だって、皮はつかうが、種は、燃えるゴミにだされるばかりだ。柚子はどうやらそれを知らないと見える。人間がせっせと実をもぐからその気になっているのだ。

 そういえば柚子の葉を食べる芋虫はいる。アゲハチョウの子供かなにか知らないが恐ろしく巨大で、我輩にむかって、シュッと威嚇してきた。柚子は五寸釘のような棘がいっぱいはえているから鳥も虫を食べに枝に止まりにくい。芋虫天国だ。

 柚子の木よ、どうも君はとてつもない間違いをしているようだ。作戦変更して実を甘く、棘を減らして鳥達に食べてもらえるようにしたまえ。人間とだけ付き合ってもあまりいいことないぞ。


11月24日 水曜日 曇り

 ベランダに出ると枇杷の花が匂った。晴れた日の日中は強く香るが、今朝は毛に覆われたガクの中で白い花はまだまどろんでいるらしい。蜂蜜のように甘く、ねっとり重さがあって、その底にわずかにイランイランのような華やぎと苦味を秘め、小暗さと荘重さにをカーネーションを少し足したような香り。嗅いでいると暗く甘い夢の中にからめとられてしまいそうな香りだ。

 数日前までは蜂も来ていた。十一月というのに、元気なことだ。北陸でこれほど枇杷の花が咲くのも温暖化のせいだろう。その花に来る蜂がちゃんといるのもそうだ。

 山道を見ると黒いもの。小熊か!と思ったら、お隣のクロだ。太ったな、アイツ。

 工房ではUちゃんがデパートの展示会の仕事に追われている。期日が迫って大変らしい。去年よりぐっと仕上がりがまとまってきたし、やはり人に見てもらうことは大事だなとおもう。オットセイは展示会が嫌いでなにかというと断っている。おるかは一品物を作るのが好きなので、注文が少なければ、その分凝った物を作ってそれなりに楽しそうである。


 

11月21日日曜日 ときどき時雨

 我輩はミケ、猫である。寒くなってきた。先週は炬燵でだらだらとすごしてしまった。遅くなった藍生の原稿にかかる前に、ネット句会の感想を書いていると、お客様だ。生活文化研究所のエライ方と、ご案内している加賀旅まちネットの方。我輩の毛並みを非常に誉めてくれた。旅ネットの方の口ひげがなんとなく親しい気がして、正面に座って眺める。

 日本の生活文化が失われた現状について人間達は嘆きあっていた。火鉢を買って、灰を入れずに火をいれて、割れたからといってデパートが訴えられたそうである。むかしは己の無知を恥じた所を今では当然のごとく訴えて、しかも精神的ダメージ料まで、取れるらしい。

 こうしてみるとPL法の元になった伝説、「猫を電子レンジで乾かした」という話も本当なのかもしれぬ。おそろしいことだ。人間達のわけの分からぬ行動のとばっちりを受けぬために、日ごろからよく観察しておかねばならない。その点、タマは喧嘩っ早い、嫌なやつではあるが、観察家であることに関しては大したものだ。ロクロ場での人間の行動パターンを完全に見極めていて、必要があれば楽々としのびこむ。この間も家の窓に座って外を見ていたら、仕事場の玄関をガラリと開けてタマがでてきた。どことなくこそこそしているのが,可笑しい。そのあと、戸を閉めることさえ憶えたら完璧なのだが。

 さて生活文化の話にもどろう。生活文化なるものがそれほど簡単に失われるということは、人間の文化が、もともとうつろいやすい表面的なものだからでもあろう。我等、猫族は、アフリカでもアジアでも、優美なる貴族的物腰を失ったことはない。身づくろいをし、狩をし、くつろぐ。その姿は神の楽園にあったと時と同じマナーである。あわれ楽園を追放されたものたちよ。本能が壊れたままで生まれてくる人間は、すべて自分達できめてゆかねばならないのだ。それが知恵の実を食べたことの、自由という罰なのだ。


11月15日 月曜日

 夕方おるかが東京から戻ってきた。さっそくお土産のクッキーなどみんなで分けて食べていた。我輩にはなんにもなし。

 自分には東京駅の前に九月にオープンした丸善でペーパーバックを一万円ほど買っていた。薄くて簡単なアゴタ・クリストフについての論考「」。それと、いままで読んでなかった「木を植えた男」。内容は知ってるので名古屋に着く前に読み終わってしまった。「親愛なるママン ボードレールからサンテクジュペリまで」という書簡集はトイレ用である。「トイレに置くには、読みふけってしまう小説や、前に読んだ所が思い出せないとこまる哲学書は不向きで、日記や書簡集がいいのだ。」ともったいらしく言う。そのほかはピエール・クロソウスキーの「ディアナの水浴」これは,いっぺん原文に触れたかったそうだ。

 評判の高い「ダ・ヴィンチ・コード」が平積みになっていたので、ちょっと読んで見たけれど、竜頭蛇尾、大山鳴動鼠一匹という感じだった。もちろん数時間のエンターテインメントとしてなら、それでいいのかもしれないが。

 丸善の洋書部は期待していたほど充実していなかったとこぼしていた。本の虫のおるかの期待通りの本屋さんなんて、まず無理だろう。好みが偏ってるし。その他、図録の類はあとで宅急便で着くそうだ。

 パソコンのメールをチェックすると図書館から予約図書の届いた知らせがあった。エリック・ホッファーが二冊、それと「美学とジェンダー」

 寝る前に電車の中で読むためにもらった探偵小説を片付けると息巻いていたが炬燵で寝てしまった。さすがに疲れたのだろう。


11月10日 水曜日 快晴

 イラスト、投句どちらも速達で出す。720円。無駄な出費だと反省したのか、おるかは帰りに寄った本屋さんでは地図を買わずに、じっと暗記して帰った。

 山道に猪が掘ったのだろうか開墾したように土が出ている。今夜は見張ってみよう。

 夕方、家の者達は駅まで、出かけ、おるかは切符を買い、電球とチンゲン菜を買い、美術館から搬出もしてきた。三つのことを忘れずできたとは、いつも買い物下手なわりにはよくやった方だ。


11月8日 月曜日 晴れ

 ホームページの表紙を,今日は少し考え考え書いていた。といっても三十分ほどだが。牡丹の灰をくれた人の事など思い出したらしく、おるかはしんみりしていた。

 我輩はまた散歩に出かける。外猫のシロがまた小鳥を獲っていた。凶暴なヤツだ。タマは蛇を獲っていた。恐ろしいヤツだ.

 枯れ草の中に、残んの朝顔が小さな花になって咲いていた。まるで昼顔のように。

 昼顔といえば、先日読んだ「灰色の魂」で殺された少女のあだ名が昼顔 (bell de jour )だった。コレットの本でも「色あせて灰色の昼顔( liseron )というフレーズがあった。昼顔は好きな花だ。「灰色の魂」は途轍もなく暗い小説だった。なにかと賞を取ってよく売れもしたらしいが。

 そういえばイアン・マッキュアンの「アムステルダム」も感想を書いていなかった。三人の男達のミューズだった美しい女性はなんとなくリー・ミラーのようだ。創造的な写真家でファッション写真も撮り、料理研究家だった りー・ミラー、ほんとにきれいな人だし。

 コレットの「La Lune de Pluie 」をちびちび読む。やたらに辞書を引かねばならない。プルースト以上かもしれない。さまざまな砂糖菓子の名前とか、当時の料理用ストーブの部品の名前とか、フランスで暮したらなんでもない事物の名前。でもそれが楽しい。プルーストに言及するところもあってちょっと興味深い。工藤庸子「プルーストとコレット」にこの本はあまりにマイナーな小品だから、出てこないんじゃないだろうかと思ってなんとなく一人ほくそえむ。


 

11月6日 土曜日 快晴

 うっとりうららかな晩秋の一日。鉢植えの冬支度を始めたおるかは、あまりいい天気なので「、これならもうしばらくベランダに置いていてもいいだろうか、いや…」などとあいかわらず優柔不断である。大所高所というものの分からないヤツである。もっとも数個の鉢植えの移動に大所高所もないものだが。かと思うと掌サイズの苔盆栽の雑草を引いては「神は細部に宿り給う」など嘯いている。あんなちまちました所に宿らせられたら、神様も大変だ。

 我輩は日なたで昼寝。家にいるのはいいものだ。


11月3日 水曜日 曇り

今日は休日だそうだが、家のものも工房のUちゃんTちゃんも普段と変わらず仕事している。夕方からはK嬢が箸置きの釉薬をかけに来た。庶民はせっせと働いている。

 また熊が撃たれた。柿の木にいた親子三匹。かわいそうだ。住宅地に近いといったって、山をどんどん切りひらいては、宅地にしてるんだから、人間の方が山に入って行ってるのだ。杉の木ばかり植林したせいで、動物のえさがないほか、山の保水性も、環境の多様性もなくなったのだ。ドイツの黒森でも混生化を進めている。森林行政そのものから変えてゆかねばならない時にきているのだろう。熊が出てくるのは山の環境の悪化の警鐘なのだ。それを招いたのは人間なのだ。

 石川県だけで今年すでに百頭以上の熊が殺された。子熊だけで冬を越すことは難しいだろうから、この調子で行けば三年でツキノワグマは危険なことになるだろう。

 お隣のおじいちゃんの意見だと、猪が殖えているのも熊の食べ物が少なくなる原因の一つだろうとのことだった。おじいちゃんの畑の山芋はみんな猪にやられたそうだ。稲刈りに行ったら、山の田んぼが猪のヌタ場になっていたとか、猪被害の方がずっと深刻らしい。


11月 1日  月曜日曇り

 十一月はなんとなく好きだ。冬といっても寒すぎるほどでなく、光が黄色いのもいい。何でも陰影が濃く見える。床の上に枯れ枝の影がくっきり映っているのもいい。

 本棚を買ったので、本を移動させたり整理したりで家の中が埃っぽい。いかにも華奢な背ばかり高い木製の本棚で、上ってみると天井のライトがまぶしい。高い所が好なきわれら猫族には恰好の遊び場である。下を見下ろすとダンボールの箱の中にも本、壁際も、大工さんに作ってもらった杉の本箱もギュウギュウの本、本本だ。横積みにしていた本をちゃんと並べると、新しい本棚もすぐいっぱいになってしまった。これでも大方は図書館で済まして我慢しているそうだ。おるかは図書館で取り寄せてもらって一度読んでから、買うかどうか決める。慎重というかケチというか。

 夕方、K嬢が箸置きを仕上げに見えられた。いそいそと御茶やクッキーを出したり、お気に入りのCDをかけたり、おるかは楽しそうである。別に人間が人間同士なにしようと我輩にはどうでもいいことではあるが、無視されているのも、ちょっとつまらん。後ろから忍び寄って、匂いを嗅いでみた。驚きもせず仕事を似集中している。つまらん。おるかが大石先生に書いた手紙を畳に広げて乾かしていたので、その野葡萄の絵の上に乗ってみる。慌てて追い払おうとするセーターの腕を抱え込んで、心行くまで猫キックを入れる。愉快。


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