ミケ日記

2006年8月

 

8月1日 火曜日 晴れ

 我輩はミケ。猫である。梅雨が明けたと思ったら途端に真夏日の連続である。我輩はすでに夏毛に変わって入るが、さすがにこの暑さにはまいった。おるかは桑名からの帰りの電車の冷房でやられたとかで喉をゼーゼーいわせている。それでも借り出し期限が過ぎたと慌てて図書館に行った。図書館の本の貸し借りにだけは律儀なやつである。九冊借り出したそのあと書店でまた本を買って戻った。「ちょっと頭痛がして仕事に集中できないなぁ」と言いながらその日のうちに五冊読了した。具合が悪いなんてのは仕事をサボって本を読む口実に過ぎないのではないかと我輩はにらんでおる。

 最近の若い女性作家の本をこのところ読んでみている。一つ気づいたことがある。古い日本家屋がちょっとしたブームになっているのだ。「きいろい象」も主人公夫婦の夫の田舎の家であれこれだし、梨木香歩の「家守綺譚」「からくりから草」恩田陸「「蛇行する川のほとり」等々。女性でなくても平出隆「猫の客」保坂和志のの作品。ざっとお思いついただけでもけっこうある。日本家屋のほうが異界との境界線が曖昧な薄闇があるのだろう。軒下や縁側など風景を呼び入れるしつらいのよろしさはブルーノ・タウトならずとも住んでいれば実感できるのである。縁側の座布団で昼寝というのは我輩も一度してみたいものだ。今住んでいるこの家は破って遊べる障子や襖には事欠かないので気に入っているが、縁側がないのだけは不満だ。


8月2日 水曜日 晴れ

 若手女性作家の話の続きをしよう。梨木香歩の「家守綺譚」は面白かった。他の作品は皆、設定は嫌になるくらい好みなのだが、真面目な性格の作家なのだろうなんとなく先が読めてしまう。恩田陸の小説では、すらりと気高い美少女は必ず死ぬときまっている。可愛いタイプの美少女と悲劇のカップルになることもしばしばだ。

 「きいろいゾウ」(作者の名前をわすれてしまった)はまぁ面白かったが、すこし湿っぽいムーミン谷という感じだった。夫婦のそれぞれの日記に子供のころ読んだ黄色い象の童話が挟まるというなかなか洒落た構成である。登校拒否の九歳のお利巧な少年が一番活き活きと描かれていてきっと作者に似ているんだろうと思う。主人公夫婦のツマは子供のような保護欲をそそる女性だが、夫の愛を確認した所でそれまでの見えないものの気配が見えてしまうようなところもなくなって日々これ好日のムーミン・ママになっていくと見えた。この本を読んで思春期の子供達が「大人になるのもそんなに怖くないな」と思えたらいいなと思う。が、思春期をとっくの昔に過ぎちまった我輩などはこの後にはバルザックの人間喜劇でも読んでバランスをとりたくなる。

 このところいろんな賞をソウナメにしている糸(本当は糸二つ)山秋子は上記の作家達とは少しテイストが違う。何が違うって、エロス的情緒が無い。主人公ががセックスレスな人ばかりだからというわけじゃない。それだったら「家守綺譚」だってそうだが、こちらは周りの気配や古い家そのものにエロス的情緒がある。恩田陸の小説も高校生の同性の先輩への憧れとかで実際にセックス・シーンはないが息詰まるくらい情緒的だ。だから(なのかどうかわからないが)糸山秋子の小説はさばさばしている。主人公が病気だったりするがそれでいて人間性への信頼がある。あとくちさっぱりという感じである。

 女性というジェンダーで作家を括るというのはもんだいがあるかもしれない。特にそれに<若い>というのまでつけるとなおさらだ。

 しかし、以前、百人の画家の百枚の絵(写真)をみてそのなかですきな作品を十枚選んだら、七枚まで女性画家の作品だったので自分で驚いたことがある。実際に百人の中で女性画家の割合はかなり少なかったにもかかわらず、である。永遠に女性的なるモノというのはあるのかもしれないとそのとき思った。


8月3日 木曜日 晴れ

 ベランダの朝顔が見ごろになってきた。軒まで紐に這わせて、簾代わりの夏の日陰にしている。紺色の花がくっきり涼しげだ。「家の中からだとどの花も裏っ側しかみえないんだよねー」と、おるかは例によってぼやいている。

 昨日、情緒的云々の話をした。情緒的というと甘ったるいような底が浅いような、要するに浅はかであるかのように考えられているが、ベンヤミンも謂うように一つの文化の「集団の夢」はそんなお洋服のフリルのようなところに顕現するのである。

 情緒の失地回復を女性作家たちはもたらすかもしれない。これ装飾美術にもいえる。装飾もまた不等に貶められてきた。虚飾なんて言葉さえあるように、無意味不必要悪趣味と見做されたのである。
 しかし、それも今の時代の効率主義とピューリタニズムのない交ぜになったギクシャクした世界観の産物だろう。

 紋様には人類の誕生以来担ってきたおそろしく深い根があるだ。これは長くなるのでまたいつか別のところに書こうと思う。


8月5日 土曜日 晴れ

  絵付けの部屋に入ったら、板の上にナマズが整列していた。勿論、ハシオキだ。九月の某店の箸置き展用である。キャット・フィッシュというだけあってなかなか愛嬌のある魚箸置きだ。初めの頃に描いたナマズはムッツリしているが、だんだんあっちを見たりこっちを見たりしはじめるのが、おるからしい。

 早めに仕事を終えたと思ったら、今夜は句会だそうだ。玄関に老いた蚊取り線香の、きな臭い匂いに我輩は落ち着かない。テーブルの下にもぐって聞くともなく聞いていると普段は声の小さいおるかも随分ワーワーいっている。選評の合間にアイスクリームを食べたり楽しそうである。初めて寂庵の句会に参加した方が印象深かったことを色々話していた。あとでおるかも「やっぱり先生の選評伺うと刺激になるよねー!涼しくなったら私も寂庵へ行こう!」と言いながらお土産の葛桜を一人で食べていた。


8月6日 日曜日 晴れ。

 今日も暑い。連日の真夏日、熱帯夜で我輩もさすがにふらふらだ。外猫たちもばてているらしく、いつものように喧嘩を売ってこないのだけが幸いである。
 お隣のラブラドル・レトリバーのラッシュ君も川を歩かせてもらってバシャバシャ大喜びしていた。冷やし馬ならぬ冷やし犬である。

 おるかは妙に元気で洗濯したと思ったらこの暑い中、草むしりをし、その合間にカーペットを叩いたり干たりしたかとおもうと、つぎは雑巾がけだ。暗くなってからゴミ袋を二個一度に運んで行った。普段は指が痛いとかいって一個しか持たないのに、どういう風の吹き回しなのだろうか。耳を立ててみると「俳句ができない…」とつぶやいている。それで動き回っていたのか…納得。


8月8日 火曜日 晴れ

 ガランガランとものすごい音がした。北陸電力の工事車両がきている。「9時から停電になります」と連絡があった。「冷凍庫の中のアイスクリーム食べちゃったほうがいいかな?」とおるか。妙に嬉しそうである。9時までの少し間、工事の人たちが川を見ている「あれ、みんな鮎か?」と聞いている声が若い。「へー、ウグイ?!」。
 工事は一時間ほどで終わった。我輩は二階の窓から眺めていたがきびきびと働いていらっしゃった。今はまだ涼しいけれどお昼ごろになったらこの暑いのに大変だろう。「あぁいう方々のおかげで社会が回るんだねー」とおるかもしばししみじみしていた。「涼しい家のなかでマイペースで仕事できるんだから頑張らなきゃね」などと殊勝なことを言ったかと思うと「さてアイスクリームどうなったかな」とバタバタ走っていった。


8月9日 水曜日 晴れ

 だいぶ前から考えていた百合のデザインの皿に取り掛かる。次の窯にいれようとおるかは異様に集中していた。こういうのを<道楽もんの一時働き>というのだろう。骨描きを終わるまで昼ごはんを我慢していたのでへろへろになっている。よろよろ野菜炒めなど作って食べたところでオットセイに「あの皿は次の窯には入らないよ」と言われてがっくりしていた。
 そんならというので焦って今月の投句を速達で出そうと郵便局と書店へ出かけた。郵便局では振込みの機械の調子がおかしく、書店では届いた本が注文したのとは違っていたり、と散々な一日であった。


8月11日 金曜日 晴れ

 オットセイの高校時代の友達が烏賊をたくさんもってきてくれた。夏休みの間趣味で漁師をしているそうだ。捕れたての烏賊は透き通っている。沢山なのでお隣にもおすそ分けして、刺し身やら炒め物やら一日中イカを食べていた。自家製トマトソースでイタリア風イカ焼き飯がおるかは一番気に入ったようであった。我輩はイカはなんとなく食べない。結局我輩はカツオブシかけカリカリが一番好きなのだ。

 イカの中味を裏庭の生ゴミ捨て場に捨てたので、あたり一面ものすごい匂いだ。


8月12日 土曜日 晴れ

 おるかは四ヶ月に一度の歯医者さんの定期健診にでかけた。「きれいに磨けています」と誉められて歯のお掃除だけですんでほっとしていた。「貧乏人は病気になれないもんね」といいながらジュースにアイスクリームと驚くべき甘党ぶりだ。一日中そんなものばかり食べて、食べ終わると余韻を楽しむ暇もなく歯を磨く。歯にはいいのかもしれないがなんだかあまりにもせせこましいような気もする。


8月13日 日曜日 晴れ

 暁闇に蝉が鳴き始める。薄闇のなかに小さな灯明が灯ったように一匹がアリアを歌うとあちこちで声がありそして全山を動響もす大合唱となる。かなかなは全く黄金の声をした虫である。蝉どもの太陽賛歌は毎朝のことながら心を打つものがある。我輩も外の空気を吸いたくなったので、まぬけな顔で寝ているおるかの枕もとの襖をばりばりやって起すと「外に行きたいのか?」とよろよろ起き上がって玄関に素直に行く。最近はさすがにあまり文句を言わなくなった。よしよし良い心がけであるぞ。

 戸を開けると朝の空気は随分さわやかだ。人こそみえね秋はきにけりである。イネ科の雑草などを齧りながらふとみると、外猫のタマが躑躅の植え込みの枝葉の上にべったりとひろがって乗っている。涼しそうである。クレーのデッサンの「木の上の処女」のポーズである。なかなかやるなと思った。おるかも「そんなところに乗れるんだねー、よしよし」と撫で回していた。タマもさすがにすばやく飛び降りるわけにはいかないらしくされるままになっていた。というか、タマはけっこう撫でられるの好きみたいだ。外猫のくせにか外猫ゆえになのか分からないが、愛撫に飢えているようだ。ふん、哀れなやつよ。


8月15日 火曜日 晴れ

 朝起きるとテレビが首相の靖国参拝のニュースでもちきりだった。その後の首相会見の居直った発言など目を覆いたくなるばかり。こういう人間を首相に選んだのは国民だろうと言われても、どこまでバカかなんて、そうわからないもんですよ。コネズミいや小泉首相は「参拝は個人の心の問題」だと言うが、仮に歴史認識など脇において個人の心の問題にするとしても、それをを国益より優先させるのは一国の首相のするべきことではなかろうと猫でも思うのである。

 それにしても暑い。おるかもちょっと仕事してはよろよろと冷蔵庫まで往復して冷たいものばかり食べている。それで結局「お腹が痛い」と寝込んだ。あぁ人間とはなんと愚かな生き物であろうか。


8月17日 木曜日 小雨

 久しぶりの雨、丁度よいお湿りだ。

 黒田杏子の「俳句列島日本すみずみ吟遊」を拾い読みする。装幀の八重山上布の美しさに先ず魅了される。それにしても黒田杏子という俳人の行動力の凄さには圧倒される。まさに列島の隅々まで足を運び、風景に出会い人に出会う。「出会いで人は成長するっていうけど、凄いねー。私なんかこの十年に出会った人の数なんか知れてるもんねー。成長しないわけだね」といいながら、おるかはそんなに残念そうでもない。もともとどこかに出かけるより家で猫と遊んだりしているのが好きなのである。我輩のシルクの毛並みを撫でながら「この十年はミケを眺めて過ごしたようなもんだ」としみじみしている。良いではないか?何かに真に出会うためには、本人の心の中が出会うべく熟していなければならないのである。これをそつ(口偏に卒)啄同時という。雛が内から卵の殻をつつく時、母鶏がまさにぴったり其処を外からつついて助けるということだそうである(本当かどうか我輩は確かめたわけではない)。出会えないのは本人の心がまだ準備できてないからなのである。しかし、おるかをみていると何がしかの準備をしているようには全然見えないのである。ひょっとして一生卵の中で暮らしたいのであろうか。


8月19日 土曜日 晴れ

 今日も暑い一日だった。夜になって一息つきながら窓に寄っていると。月の無い闇の中からカエルの悲鳴が。また外猫がカエルをいじめているらしい。困った連中である。とは言うものの、我輩もトンボでも何でも見つけたらつい飛びついてしまうのであるから、他猫のことをどうこういう資格はないのだが。


8月20日日曜日 晴れ

 台所のシンクの下がかび臭いと、この暑いのにおるかは午後から大掃除をはじめた。冷蔵庫の裏の埃におどろく。仔鼠のようだった。ついでに薬缶を磨いたり、ともかく一旦始めると計画性もなく無我夢中になるらしい。夜に入ってようやく終わった。流しの足元のステンレス部分に我輩の姿が映って一瞬ぎくっとした。おるかも満足げに紅茶を淹れて谷川俊太郎「夜中に台所で僕は君に話しかけたかった」を読んでいた。ベタなやつである。


8月21日 月曜日 晴れ

 昨日は隣町の小松市で37℃あったそうだ。これからこんな夏が毎年やってくるのだろうか。
 おるかは今日は古九谷風の花紋の丸長皿を描いている。オットセイは昼寝している。いかにもオットセイらしい。夕方になって、今日は二階のパソコンの部屋の掃除をはじめた。クーラーの噴出し口とか普段しないようなところを狙っているらしい。おるかの掃除熱は我輩にはいい加減迷惑である。掃除機の音は怪獣の呼吸のようで我輩の神経を逆なでする。それに見慣れたものの配置が変わるのもこのましくない。第一せっかく我慢して昼寝しているのに邪魔になると追っ払われるのには腹が立つ。足に噛み付いてやったら「うわ!人を襲うな!」なんて言って遊びだと思っている。うんざりしたので、川下の別宅に散歩がてらでかける。あの物置でなら静かに眠れるだろう。


8月23日 水曜日 晴れ

 おるかは歯の定期健診に行って何事もなく歯のお掃除だけで無罪放免になった。「祝いだ祝いだ」とアイスクリームを食べている。最近のお気に入りはグリコのバニラリッチとショコラ・リッチ(こういうのは重箱読みというのだろうか)というカップ・アイスだ。「ハーゲン・ダッツにしろ高くてて美味しいのはあるけど、安くて美味しいのこそユリイカ!なのだ」ともったいぶっている。全く大人げないというか。
 そんな我輩の視線を感じたのか「ヘン、ヒモに飛びついてでんぐり返しするようなやつに大人げ云々と言われたくないね!」と憎まれ口をいう。ヒモに飛びつくのはエクササイズだ!そのかいあって見よ!このプロポーション。手足とシッポは長く、顔は三角で小さく、お腹は引き締まって後足の付け根のあたりなど消え入らんばかりの細腰であるぞ!見せ付けてやろうと伸びをすると「胴長!」と言った。ククク…。


8月25日 金曜日晴れ

 おるかは風邪気味だそうだ。この暑いのにご苦労なことである。それでも図書館に予約図書を受け取りにいった。「新刊を予約すると、購入してくれるらしいのよ。ほらこの本「(アーキペラゴ)今福龍太・吉増剛造著」も加賀市ってマーク押してある。俳句と詩関連を充実させたいもんですねー」などと言う。やってくれ。
 風邪気味だからと今日は軽めの本を選んだそうである。まずは中野翠の「甘茶日記」一年分のコラムをまとめたもので「そういえば去年はこんなことがあったのよね」と懐かしそうである。中野翠氏の政治家嫌いなところ変な人好き等おおむね似たような考えで面白く「そうそう」と笑っていた。が「映画の趣味はようわからん」という。それがこのコラムニストの肝心のところとちがうの?
 「中野翠さんって女の子っぽいよね」という。こういう判断はは自分が基準になっている。おるかは大概の女性は「女らしくてとってもしっかりしている」と思っているようである。


8月26日 土曜日 晴れ

 暑い。おるかは寝そびれたとかで朝早くから戸をあけて玄関の掃除などしている。我輩もちょっと外に出て草を咬んでいた。ふっと嫌な気配を感じて振り返ると外猫シロである。こやつシロというにしては黒い。しかしそんなことのんびり眺めている暇は無い。我輩の口からはしっかりとテリトリーを主張する雄たけびが響きだす。
 おるかがでてきて、「喧嘩はやめてよね」とかなんとかいいながらシロに近づく。アブナイと我輩は思った。凶暴なシロである。きっと噛み付く。ところがあにはからんや「くふん」てな鼻声をだすとシロのやつ急に地面に転がっておるかのツッカケに頭をこすり付けたのである。まるで「どうにでもしてください」のポーズである。我輩は目を疑った。これはいったいどうなってんだ!外猫とはいえ猫ではないか。デクノボーの人間とは出来が違う。われらは百獣の王の眷属である。それが誇りの欠片さえないあの態度。
 混乱した我輩は家に駆け込んだ。後からぼんやり戸を閉めるおるかの足に駆け戻って噛み付く。「痛っっ!なにすんだー!」「まったく内弁慶ってお前のことだなミケ」とか何とか的外れなことを叫んでいるおるかを尻目に我輩は二階に駆け上がった。背中を舐めて気持を静めようとしたが、なかなかシロの態度が頭を離れない。餌が欲しくてあんなことをしたのかも知れぬ。まったく意地汚い奴だと思った。


8月27日 日曜日 晴れ

 午後から、おるかは福井市立美術館へ「ニキ・ド・サンファル展」をみにいった。

<ごく初期のあの絵の具を猟銃でぶっ放す作品はあまり感じのいいものではなかった。90年にはいって技法が確率した「河馬の女神」や「le mond 世界」などの作品は好き。女性であることの避けがたい苦悩と豊穣性。巨大でカラフルな女性像を見ても、ノウテンキなほど陽気でおおらかなその一番底にしたたかに傷ついた魂が覗ける、と思う。ニキの作品を女性賛歌とだけ見るのは私にはできない。90年代の作品は技法の裏づけもあって、幸せに眺められる。>と感想を言った。

「ウオーホールの猫があったんで買おうかなと思ったけど、これなら、ニセモノ描けるなと思ったからやめた」と言う。なんて奴だ。暴露するとおるかの秘密のスケッチブックには藤田嗣治の猫とか、クレーの子猫とか、かなりのコレクションがあるのだ。


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